2006年10月27日

時間よ!止まれ〜

先日、「国宝 伴大納言絵巻展」の記事を書きましたところ、マッスルさんより、

ガキんちょが喧嘩していることが何度も繰り返されているあたりが、「異時同図法」の技法の典型的ということらしいです。

というコメントをいただきました。マッスルさん、ありがとうごじゃいます〜

さて、この「異時同図法」という一般には聞きなれないコトバ。ちょっと調べてみましょう。  
京都古文化保存協会HPより引用
http://www.kobunka.com/kaiga.htm

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絵巻物―
巻物状になっており、やまと絵(絵画)と詞書(文章)によって構成されている。 10世紀末頃から製作されていて、この絵巻は長い画面に描かれているが故にその鑑賞の仕方も右から左に既に見終わった部分を巻き取りながら、これから見る部分を巻き出すという特殊なものである。このような特殊性が次のような絵画技法を生んだ。
・異時同時… 一つのある場所で物語が展開される場合、同じ場所を何度も描く必要性が出てくる。しかし、あまりに何度もそうしていると画面がくどくなってしまう。 これを解消するための技法が異時同図法であり、この技法のもとでは一つの背景の中に同一人物が何度も描かれる。 鑑賞者はこの登場人物の動きを追って物語を読み取るのである。
・吹抜屋台…略
・引目鉤鼻…略

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この「異時同図法」、古来から様々な画につかわれております。  

まず、有名な「捨身飼虎図」。国宝・玉虫厨子須弥座両側面に描かれていて、この形を代表する作品です。極度の空腹に耐えかねた母虎が、今にも自分の子供を食べようとしているのを見た菩薩が、自らに衣服を脱ぎ捨て、身を投じて母虎に与えるといった時間的な流れのある事柄を、同一画面上に表わしています。左側の崖を背景として共有させることで、複数のものを1つ(1人)と認識する動きを感じさせています。

捨身飼虎図.jpg捨身飼虎図

この、玉虫厨子のある法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇っております。ばれん的には、小学校遠足コースです。さらに女子高時代は、四天王寺のそばを美大受験のデッサンコースでしょっちゅう通っていたので、「聖徳太子さま〜」的ミーハーなのですが、また行ってみようかな。

聖徳太子といえば、思い出すのが山岸涼子センセの『日出処の天子』でしょうか。(略称「トコロテン」)。聖徳太子(厩戸皇子)が主人公。一万円のお札で(ある年齢以上の方は)お馴染みな髭の聖徳太子を最初の扉で描いてしまい、どないしょ的なことをどこかのあとがきで書いておられました。センセがどないしょと思われるくらい、キャラはものすごい(男色?)の美少年であります。髭なんてありえない〜!。  
山岸センセはこの漫画を描かれるきっかけに、梅原猛氏の『隠された十字架』を読んで、「聖徳太子って恐ろしい」という思いを抱かれたことをあげておられます。梅原センセ、ばれんが大学生の時のガッコの学長センセ、学食でBランチ食べてたわ〜。

  
話をもどしましょう。
イタリアルネッサンスからは、巨匠ミケランジェロです。システィーナ礼拝堂の荘厳な天井画の中盤、「原罪と楽園追放」で、アダムとエヴァが、蛇の誘惑にのって禁断の実を手にした左のシーンから、神の怒りをかって追放される右のシーンへと、時間の流れを「異時同図法」を用いています。

楽園追放.jpg 原罪と楽園追放
 

さて、お次は、ばれんの得意分野の浮世絵から「異時同図法」で描かれている?であろう図を探してみました。ありました。それは、じゃんじゃかじゃーん。葛飾北斎 富嶽三十六景のうち、「諸人登山」です。

天才浮世絵師・葛飾北斎が風景版画の最高傑作「冨嶽三十六景」。これらの作品は海を渡り、ゴッホやモネをはじめとする印象派の画家たちに"ジャポニズム"として多大な影響を与えたことでも知られています。当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定でしたが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になったそうな。で、追加の10枚の作品を「裏富士」と呼びます。


冨嶽三十六景「諸人登山」.jpg諸人登山


その北斎芸術の集大成といわれる「冨嶽三十六景」で、”富士を描いて富士を描かず”といわれる唯一富士の姿のない「諸人登山」。これが、「異時同図法」で描かれているのでは、というもの。

富士山を登山する、二人連れの旅人。彼らの霊山登山の道中、手を引いて崖を登ったり、しばしの休息をとったりする。そんなかれらの行動・時間を一枚の画面の中に入れた。  

とも、言われております。

さて、お次は、「異時同図法」とは、ちょっと違うのだけれども、ゴッホのかの有名な「ひまわり」です。

??????¨.jpgひまわり

ゴッホのこの14本(絵によっては13本)のひまわり。活き活きと咲いている花もあれば、ちょっとしおれているのもあります。ばれんは、これも一本(または)数本の花の「時間」を一枚のキャンパスにしたためている「異時同図法」で描かれているのだと勝手に思っておりました。ゴッホは当然。北斎の影響も受けておりますからね。  
しかし、このばれん説は相当無理があり、きちんとした説では、このひまわりは、ゴッホの周りにいた友人たち・印象派の画家たちを象徴しているとのことです。ゴッホが娼婦ヨーと結婚した14日を祝う意味と、祝福してくれた友人たちを描いた・・というのが本当のところらしい。  
♪小さい花や大きな花。もともと特別なOnly one。(世界に一つだけの花、作詞:槇原敬之)

最近のテレビCMに、ゴッホと北斎が紹介されています。「ゴッホ・夜のカフェテラス」篇では、「日本の色彩、日本の美に、ゴッホは、憧れつづけていました」との吉永小百合サマのナレーションに、ゴッホの絵とカフェの映像がオーバーラップしていきます。  
「北斎」篇では、やはり小百合サマが「世界で初めて、時間を止めて見せたのは、北斎の筆でした」と語り、「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の絵と大波の映像が重なっていくというもの。「動きを止めて動きを観る」という考え方は、生命科学の分野でも調査や表現で採用されています。サスガ北斎先生!「東の北斎、西のダ・ヴィンチ」と勝手に東西巨匠の双璧にさせていただいております。CMもダ・ヴィンチから北斎にバトンしてほしかった。惜しいなあ。

 

もし、ゴッホから、浮世絵と繋げるならゴッホ「雨中の大橋」または「花咲く梅の木」から、広重の、名所江戸百景「大はし阿たけの夕立」か「亀戸梅屋敷」ですよね。

??????????.jpg 

記事書きながらテレビ見てたら、サディスティックミカバンド、再結成! だって。
時間よ!止まれ〜の永ちゃんより、 この際、タイム・マシンにお願い〜!  
posted by 目黒川ばれん at 20:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

江戸紫ならぬ偐(にせ)紫

源氏.jpg源氏絵

ギャラリーを、9月は国立劇場で歌舞伎公演がないことと、秋らしくこってりとした絵にしましょうよ、とのことで「源氏絵」を飾りました。 「ワーキレイ!」と言う、 奥様方に沢山お見えいただいております。 奥様方から「浮世絵の源氏絵に描かれた女性の髪形が 皆結い上げていて、長いストレート髪のイメージの 絵が無いのは、何故なんだろう?」という質問が多いそうです。役者絵中心のギャラリーだということで、俳優や演目などできるかぎりキャプションをつけておりますが、「源氏絵」なのでちょっとさぼっておりました。そうこうしているうちにフランス人の方が小判の源氏(展示していた3点すべて)買占めていったって。時間なくて画像もおさえてなかったのよね。海をわたっていっちゃった、(♪赤い靴〜)

だいたい傾向として相撲絵と源氏絵はヨーロッパの方はとってもお好き、ゴッホがコレクションしていた400枚の浮世絵で源氏絵の占める割合、ものすごく多い。ギャラリーにも先日もめちゃめちゃ浮世絵詳しいドイツ人の来訪あり。かつて円地文子さんの訳でいいから(やさしいから)「源氏物語」読みなさいと私に説教たれたのは、イギリス人の男子(20代)だったし・・(汗)。

「源氏物語」もちろん読みましたよ。円地文子さん訳のもではなく、ここはおもいきりショートカットで大和和紀センセの「あさきゆめみし」で。まずマンガで全体像を把握してから、ちゃんと読もうと思っておったとです。(ヒロシ風)

「あさきゆめみし」さすが、宝塚歌劇になっただけあり、精緻でかつ絢爛豪華な大和和紀センセの画力!楽しく読むことができました。ただひとつご注意は、登場人物の顔がほとんど一緒!なので、人物系図を確かめながらお読みください。「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」がややソバージュで「朧月夜(おぼろつきよ)の君」がワンレングスなの以外は女性の髪型は当然みーんな同じです。ルックスに特徴のある「末摘花(すえつむはな)」や「花散里(はなちるさと)」はともかくとして、マンガ読みながらはて?この女性は誰だったかいなあと思うことになってしまいます。だいたい、お話からして、光源氏が義母である藤壺の宮に亡き母の面影を追い求め、さらに藤壺の宮亡きあと、藤壺の宮の姪の紫の上、同じく姪の女三宮、そして夕顔の忘れがたみ、玉鬘、とストーリー的にもそれぞれ「似ている」ということ前提なのですけれど。 

 

「何故、浮世絵の源氏絵に描かれた女性の髪形が長いストレートでないのか?」ですが、浮世絵でいうところの「源氏絵」は翻案小説です。原典の「源氏物語」と登場人物の名前は似通ってはいますが、時代を室町時代の応仁の乱前後に移し、足利将軍の子・光氏が浮名を流しながら山名、細川の争議を中心としたお家騒動を取り上げた勧善懲悪の物語。それが「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ」(以下田舎源氏という)です。スタイリングは江戸仕立てなので、だから皆さん、十二単ではなくお着物ざんすよ。

柳亭種彦作、歌川国貞画により文政12年(1829年)に初編を出版され天保13年(1842年)までの14年間の間に三十八編を刊行し作者死去のため未完のまま終わった田舎源氏は合巻本という性質上、読者層の中心を女子供とし、娯楽性を第一としているため、挿絵の出来が重要となるマンガやグラフィック誌の先駆けのようなものでした。大ブームとなり、種彦自身の名声も高まり、”柳貞好み”とよばれる源氏絵に見られる道具類がもてはやされ、その源氏ブームは明治初期まで続いたそうな。たしかに、「源氏絵」は襟元にひらひら、というか扇子のような飾り(これの言い方あったはず、調べておきます・・)をつけた足利光氏(源氏)がまるで宝塚の大階段をおりてくるかのシーンや、それこそ背景に花を背負った、かつての少女漫画のようなディレクションの浮世絵も多く、その手が好みの方には、たまらーんコレクションになるでしょう。

光氏の衣装わかりました。小忌衣(おみごろも)というそうです。

師匠、いつもありがとうございます。(感謝!)

奈良大学国文学科の報告で、田舎源氏の合巻本表紙に対応する本文が見当たらないというページを見つけました。

http://www.nara-u.ac.jp/koku/takara.htm  


文章より絵が先行していた、よほど絵に人気があったのでしょうね。「武者絵の国芳、源氏の国貞」といわれた由縁でしょうか。人気があったため、浮世絵においても「田舎源氏」の各場面を取り上げた作品以外にも擬源氏…とか今様源氏…、当世源氏、吾妻源氏…というような題名で色々なものがどんどん登場するようになったそうです。

匂宮.jpg 
源氏雲浮世絵合匂宮 皆鶴姫・寅蔵実ハ牛若丸 

 

歌川国芳 天保十四年(1843)から弘化三年(1846)十一月

一応「源氏雲・・」とタイトルにありますが、これは「役者絵」のようです。天保十三年六月、一連の出版統制令によって、浮世絵に役者の似顔絵を描くことや、役者名・紋所などを記すことが禁止され、江戸の庶民の愛する歌舞伎は大打撃を受けた。この時期の浮世絵には、歌舞伎の舞台に取材したことがわかりづらいものや、はっきりと役者の似顔絵と判断できないもの、あるいは古典になぞらえたものなど、カムフラージュしたものが多いのです。・・・苦心の役者絵です、
  

さておき、源氏物語占いというのを見つけました。

http://www.genji-daigaku.com/uranai/  

取りあえず、ばれんもやってみましたよ。その結果、私は、葵の上(あおいのうえ)だそうで。「美しさと気高さが絶妙にブレンド。ジッと我慢の受難の女性」だって、で周りの人は私のことをこう見ているそうだ。「澄ましているあなたを人は高く評価します。その気高さが、同性の女性の妬みを集中させるでしょう。なんとなく近寄りがたい雰囲気があなたにあります。自尊心がその原因ですが、美貌も、それに一役をかっているのです。冷ややかで、謎めいた美女ですが、本当は、みんなあなたに憧れているのかも。」だって。でも葵の上って、政略結婚で年下の源氏と一緒になって、結局は源氏の愛人六条御息所の生霊にとりつかれ、二十六歳で呪い死んじゃう、めちゃんこ損な役どころなのよね〜。

posted by 目黒川ばれん at 20:30| Comment(1) | TrackBack(1) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月05日

花より外郎の團十郎

権之助.jpg七代目河原崎権之助


 
幕末・明治の庶民を沸かせた名優といいますと、欠かせないのが市川団十郎です。お気に入りの俳優さんはもちろん多々いらっしゃいますが、実は、江戸から平成の現在まで、特定の歌舞伎俳優さんに特別にいれこんではいない、ばれんです。しかしそうはいっても、絶対にはずせないお方が、この成田屋、市川團十郎なのです。
さて、幕末・明治の浮世絵で出会える團十郎は、八代目と九代目。どちらも面長なお顔に特徴があります。ご兄弟ですしね。(個人的には・・あまりのウマズラで、正直タイプではありませんのよ)。市川團十郎家は、初代が生み出した荒事を基本として、さまざまな役を演じられる名優が多く、人気・実力ともに江戸歌舞伎を代表する役者の名家であったのは歴史上の事実ですので、このさい個人的な趣味はおいておきましょう。

八代目市川團十郎のバイオグラフィーです。
文政6年(1823)生後1ヶ月余りで、新之助の名で舞台に出る。 文政8年(1825)10月、弟に新之助の名を譲り、自身は六代目海老蔵を襲名(3歳)。
天保3年(1832)3月、市村座で八代目團十郎を襲名(10歳)。 この時代、天保の改革の一環としての弾圧が始まり、江戸三座は強制的に浅草の猿若町へ移転させられ、江戸の興行界は危機的な時期を迎えていましたが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻したのは八代目の人気のおかげだそうです。☆面長で☆、目元が二重でくっきりした非常な美男子であった。とのことですが、非常な美男子であった八代目團十郎は、粋で、上品で、色気があり、それでいていや味なく、愛嬌もあったらしい。声も朗々とした名調子だったという。当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水で白粉を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたといいます。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして、御殿女中たちが錦の守り袋に入れ、肌守りにしていたとの伝説もあった。(おえー) 今でいうヨンさま?  
嘉永7年6月、大坂にいた父海老蔵を訪ねて、江戸を発つ。途中の名古屋で興行中の父と合流し、舞台に出演。28日には、父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをした。そして、大坂での初日を迎えた8月6日の朝、島の内御前町の旅館植久の一室で自殺してしまったのです。(32歳)。原因は不明。 
 

九代目市川團十郎のバイオグラフィーです。
生後7日目に河原崎座の座元河原崎権之助の養子となり、河原崎長十郎と名のる。その前後は、河原崎座の若太夫<わかたゆう>として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積む。  
嘉永5年(1852)9月、河原崎権十郎と改名。
嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。
その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失う。
安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなる。((20歳)。 明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭<ざがしら>の地位に座った(32歳)。
 
この浮世絵は、七代目河原崎権之助を襲名したときのものです。売り込むぞ〜という現在でいうとプロモーションビデオのような位置づけでしょう。

  
明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎<ふくじろう>に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升<さんしょう>と改名(36歳)。
明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となる。
明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。
明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変え、写実主義的な「活歴物(かつれきもの)」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41歳)。  
(これは、外国のリアルな芝居作りを歌舞伎に取り入れたものです。いままでの荒唐無稽な物語から、実際の歴史や能を基にした格調高いリアルな芝居が作られるようになったのです。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買ったみたい。この過程で、田之助の芝居を時代が受け入れなくなるのですね。←三代目澤村田之助の記事をどうぞ)  
明治20年(1887)天覧劇(てんらんげき)として、明治天皇の前で『勧進帳』『高時<たかとき>』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。 明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。
九代目が活歴時代に創造した「肚芸<はらげい>」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、近代歌舞伎に大きな影響を与え、「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を残した。
明治36年(1903)9月13日没(66歳)。

あらためて、経歴をみますと、この九代目團十郎はそうとう、歌舞伎の歴史キーマンといえます。苦労人で、努力家でもいらっしゃる。ウマズラなんていって、ごめんなさーい。
 
ばれんは、ご縁あって、某劇場系の浮世絵アーカイブのコンテンツや、デジタル教育教材の製作にかかわらせていただいた。そのメインテーマが「荒事」だったのです。 「荒事」というのは元禄時代の江戸で初代市川團十郎によって創始された、荒々しく豪快な歌舞伎の演技を指します。歌舞伎十八番の他、の「車引」の場や、「国性爺合戦」の和藤内などですね。

そして、そのデジタル教育教材のお披露目に、な、なんとばれんが横に座らせていただき、開発の報告と説明をさせていただいたのが当代市川團十郎サマなのです。(感激!どきどき!) 舞台が終わり、お風呂あがりの素顔の團十郎サマ、スーツのお姿でしたが、ショートブーツのファスナーを上げきらず、くつろいだご様子でいらっしゃいました。(こっそり足元を観察させていただいておりました。)「隈取り」コーナーを試されて、もちろん完璧に正解でしたよ。
 

当代市川團十郎サマ、急性前骨髄球性白血病の再発を克服され、この5月1日に、歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」で舞台に復帰されました。 そのときの演目のうちの一つが、「外郎売(ういろううり)」。この演目は1718年(享保3年)、二代目市川團十郎が初めて演じ、外郎売の宣伝のセリフをとても長い早口言葉にして人気を得ました。1922年(大正11年)に独立した作品として復活され、現在演じられているものは、1980年(昭和55年)に当代團十郎が復活させたものです。  
拙者親方(せっしゃおやかた)と申(もう)すは、お立合(たちあい)の中(うち)に、御存(ごぞん)じのお方(かた)もござりましょうが、・・・・とアナウンサーなどの間では、滑舌の練習としてけっこう有名なものです。「外郎」とは、中国から渡ってきて小田原で売り出した、のどに効き、頭がすっきりして口の動きがよくなる薬で、現在名古屋のお土産のアレとは違います。 
 

外郎売りは、十八番のなかでも、ちょっと地味。それにはちょっとした訳があるらしい。二代目團十郎が病気をして何かの縁でいただいた薬(これが外郎らしい)で命拾いして、御礼の意味を含めてできた演目なのだとどこかで聞いたことがある。(出展は未確認です)。二代目が病気→復活で創造した演目を、当代市川團十郎自身が復活させた。この演目を自身が復活したときに選び、演じる。この因縁というか、運命、執念に脱帽しました。

posted by 目黒川ばれん at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

三代目澤村田之助

ばれんの所有浮世絵は、歌川派のもの、主に豊国(三代)あとは、国貞(二代)・国芳・および国周あたりがほとんどなので幕末・明治の庶民を沸かせた名優のお姿をちゃっかり拝見できます。せっかくなので、いろいろご紹介したいと思っております。歌舞伎を見ても最近女形が気になるので、まずは三代目澤村田之助を。  
朝顔日記.jpg「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)

   
=朝顔日記の中での盲女朝顔の澤村田之助です。相手役の駒澤次郎左衛門は坂東彦三郎、絵師は歌川国貞(二代)。この田之助、目元に険があり、たいそう色っぽい。朝顔日記は、娘時代の深雪の姿で美しいものが多々ありますが、(手持ちの浮世絵がないのが残念!)年増女も定評があります田之助ですさかいご勘弁を・・。

ざっと、三代目澤村田之助のバイオグラフィーなどをまとめてみましょう。

弘化2年(1845年)2月8日、五代目澤村宗十郎の次男として江戸に出生。幼名由次郎。
弘化4年(1847年)11月。江戸・河原崎座にて澤村由次郎で初舞台。達者な名子役として人気を博す。

安政4年(1857年)12月江戸・市村座『歌祭文』のお染、『廓文章』の夕霧で本格的な女形となる。

安政6年(1859年)正月。江戸・中村座『道中双六』のお袖で名題昇進。三代目澤村田之助(紀伊国屋)を襲名。
万延元年(1860年)正月。江戸・守田座『百千鳥賑曽我』で異例の16歳の若さ立女形(たておやま)となる。

  
以後21歳までのあいだ、八重垣姫・時姫・雪姫の「三姫」をはじめ、皆鶴姫・関の扉の小町、娘では八百屋お七・お初・お半・深雪、片はずしの政岡・重の井、奥方の常盤御前・顔世御前などを演じ、さらに「切られお富」のようないわゆる悪婆ものといわれる濃厚でエロティック、時にマゾヒスティックな美を舞台に展開する。


田之助の芝居中の髪型、着物を似せた物が大流行し、田之助髷、田之助襟、田之助下駄などがあったというから、いかに当時が女形払底のご時世とはいえ、この人気と出世、それは、それは相当なものだったのでしょう。浮世絵の中で見る田之助は、全盛(失礼!)いや、若いころ(もっと失礼!)の玉三郎のルックス・印象を彷彿とさせる。江戸の当時も美しい女形はいっぱいいたけれど、はっきりと格の違いを感じさせる存在です。


田之助は当時の舞台の評判や美貌はもとより、両手・両足を失ってもなお舞台に立ち続け、発狂して亡くなったという悲惨さゆえに伝説となりました。黴菌が体内に回ったことによる脱疽(だっそ)で、これは手足が壊死脱落していくという症候だったそうですが、病気の核心は不明。舞台の事故で釘を踏み抜いたとか、化粧で使うお白粉の鉛毒が原因とか、遺伝性の動脈血栓・閉塞症から糖尿病を併発したとか、いろいろ言われております。


慶應3年(1867年)(22歳)に右足を切断、
明治3年(1870年)(25歳)に左足を切断。両脚を失ってなお、芝居にかける田之助の意欲は燃え上がり、舞台に切り穴をつくって下から体を鉄棒で支え、馬にまたがっての立廻り、宙乗りまでしてのけたそうな。しかしついに右手は手首から先全部を、左手は小指を残してすべての指を切断することになってしまう。田之助は両手両足のない役者となりました。両手両足を失っても、トップの女形(田之助は立役も兼ねていましたが、本領は女形)の意地が田之助に一世一代の芝居をやらせます。  
明治5年(1872年)(27歳)正月、東京・山村座。黙阿弥の『国性爺姿写真鏡』(こくせんや すがたのうつしえ)の錦祥女(きんしょうじょ)。これは、4月の国立劇場の歌舞伎鑑賞教室の演目なので、ご覧になられた方は記憶に新しいかと思います。お城の窓から、きらびやかな支那の美女・錦祥女が、「これがお顔の見おさめ」と、別れの父にむけてのクドキに、観客は涙をしぼったといいます。たしかにこの演目なら、座ったまま上半身だけで演技できる、中華風のビラビラした衣装が、指先を隠してくれる。  
この興行は翌月まで続く大入りとなったそうですが、これを最期として田之助は東京(江戸)の大歌舞伎の舞台から姿を消します。このとき田之助28歳。 それから田之助は大坂・京都・名古屋・甲府・伊勢・堺と落ちていきます。その芸は「田之助は体の不自由なことが売り物」、つまり「キワモノ(歌舞伎でいうところの際物ではないよ)」と非難されます。 


明治10年(1877年)(32歳)4月京都で意識混濁し、東京へもどるも狂声をあげて悶え苦しんだ末、翌、明治11年(1878年)7月7日朝、息をひきとります。享年33歳。  
 
田之助の描かれている浮世絵で印象的なのは
「里見八犬士之内犬坂毛野」(さとみはっけんしのうちいぬさかけの) 当盛見立三十六花撰「秋月の姫深雪」 「今様押絵鏡」「新造名古曽」などなど、
「見八犬士之内犬坂毛野」の絵はたぶん見立てだと思う。だって絵の発行が明治21(1888)、田之助が亡くなって10年たってるし。 実際には田之助は舞台で犬坂毛野を演じていない可能性がある。アートディレクター国周のディレクションでこの浮世絵に登場となったのでしょう。そして今で言うところの放送作家またはシナリオライターの河竹新七(のちの黙阿弥)は「切られお富」という女性キャラを、この時代の空気の中で、田之助からインスピレーションを受けて書き下ろしたのではないかしら?  
絵師や戯作者といったクリエイターにイメージを与え、作品を生み出す創作意欲へのエネルギーとなった田之助、彼はれっきとした男性だけれど、芸術へのミューズだったのね。

8月の歌舞伎座で、南総里見八犬伝をやるそうな。 犬坂毛野は中村福助、福助は「朝顔日記」でも、お嬢様の「深雪」と失明してからの「朝顔」の対比が巧い、本当に目が見えない感じや落ちぶれたって感じを良く出していた。との熱演の実績あり。楽しみです。  

posted by 目黒川ばれん at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月06日

『ダ・ヴィンチ・コード』からの妄想

いちおう、浮世絵から江戸の文化を(稚拙ながら)ご紹介しましょう、という趣旨のブログですが、今回は『ダ・ヴィンチ・コード』から連想したことをつらつら書かせていただきやんす。
(『ダ・ヴィンチ・コード』のネタばれあります)


↓ネタばれ、ココから
『ダ・ヴィンチ・コード』では、イエスの左側の人物が女性のように見えることから、この人物は“福音書記者ヨハネ”ではなく、マグダラのマリアとしています。このあたりが、世界中のキリスト教信者・団体からブーイングの原因になっているようです。
↑ココまで


しかし、“福音書記者ヨハネ”は、「か弱い若い女性的な外見としぐさに描くこと」が伝統になっているそうで、もちろんそのような例は以前からいくつもあったということです。(参考:井上英洋センセの「ダ・ヴィンチの遺言」この他にも、『岩窟の聖母』の解釈など、ダン・ブラウンの勘違い・拡大解釈についていろいろご説明されていて、たいそう為になるご本でした。)

ダ・ヴィンチの遺言.jpg ダ・ヴィンチの遺言    KAWADE夢新書 池上 英洋 (著)
“福音書記者ヨハネ”の様な「女性的な外見に描かれる男性キャラクター」というのが、他にもなにかあったような。・・・・


「男装の麗人」という女性キャラなら、古今東西いろいろあり人気も高いですよね。池田理代子センセのベルバラの「オスカル」や、手塚治虫センセの「リボンの騎士」など。いずれも、跡継ぎやお家の問題で、女に生まれながらにして、王子や近衛兵として育てられるというもの。もちろん今の世の中、愛子様はすくすくお姫さまとしてご成長なさっておりますが。麗人かどうかはさておき、同じく手塚センセの「どろろ」も入れてもいいかしらん。
実在の人物ならジャンヌ・ダルクや少しとうはたっているけれど、エカテリーナU世など、神様なら阿修羅。可憐な容姿の少女が戦場の最前線で戦う姿は絵になります。近代では川島芳子サンとかね。

川島芳子.jpg川島芳子
(川島芳子サンは、清朝王族の王女の一人として生まれながら、幼くして日本人川島浪速に養女に出されます。軍服に身を包み、軍馬に跨り、軍隊まで率いた川島芳子サン波乱の人生は、41歳で銃殺にて終わるのです。)


ちょっと脱線いたしましたが、・・「女性的な外見に描かれる男性キャラクター」そうそう、思い出しました。
「南総里見八犬伝」八犬士のうち、犬塚信乃と犬阪毛野です。特に毛野は〈女もかくやという美少年〉として描かれております。毛野は仇に近づくために必然性があって女装しているのだけれども、男だとは誰も気付かない。それは見事な化けっぷり!犬田小文吾なんか結婚の約束までしてしまう。ということで「女性的な外見に描かれる男性キャラクター」代表!というのになんの文句もつけようもないキャラ設定です。

もうひとりの女装犬士・犬塚信乃は、NHKの人形劇から美形のイメージがなんとなく定着している。これがいろいろ問題あり、なようです。横綱・山林房八の身代わりができるほど似ていた、つまりがっちりした大柄な体形だったのです。肉襦袢や高下駄でしのいだかもしれませんけれどね。十一歳まで女装で育てられたエピソードもあり、ちょっと屈折した趣味の持ち主だったのかしら?(犬塚信乃ファンの皆様、ごめんなさーい)でも、歌舞伎俳優さんも、女形をやるのはけっこう楽しいそう、変身願望を否定してはいけませんよね。


ところで、テレビ番組や映画で、どういう人が犬塚信乃と犬阪毛野と演じていたか、ちょっと調べてみました。
1983年 角川映画「里見八犬伝」

犬塚信乃 京本政樹
犬坂毛野 志穂美悦子
2006年 TBSの50周年記念、5時間ドラマ「里見八犬伝」
犬塚信乃戌孝 滝沢秀明
犬坂毛野胤智 山田優
ふふーむ、(好き嫌いは別として)信乃は美形でどちらかというと華奢な男優、毛野はたくましく、かつ美しい女優が演じていますね。
それでは役者浮世絵、つまり歌舞伎ではどういう俳優が信乃と毛野を演じているかちらっと見てみましょう。


嘉永05(1852) 「八犬伝犬の草紙の内」 二代国貞筆
犬塚信乃戌孝 八代目市川団十郎、
舞子朝毛野 実は犬坂毛野胤智 三代目岩井 粂三郎
明治21(1888) 「見立八犬伝ノ内」 国周筆 (豊原 国周)   
犬塚信乃 四代市村家橘 (五代尾上菊五郎)
犬坂毛野 三代澤村田之助
(手持ちの絵が無かったので、検索して確認してみてください)


浮世絵は「見立て」ですので、実際にこの配役で演じられたか定かではありませんが、犬塚信乃は当世での人気俳優、犬坂毛野はトップの女形がやるべきものという暗黙の了解ごとがなんとなく成立しているような・・・気がします。
しかし、この田之助ほんと、美しい。そして彼には数々の伝説が・・・女方について、特に三代の澤村田之助語りだすと、とてもとても長くなりそうなので、またまた別の機会にて。


ところで、原作の「南総里見八犬伝」では、犬坂毛野は、女装しているけれどれっきとした「男」。歌舞伎の場合、この時代は男ばかりで演じられていて、女形は普段、舞台で「女」を演じているわけだから、犬坂毛野の役は「男」を演じているのよね。テレビや映画の場合、女優が毛野を演じているようだけれど、「女」が「男」を演じている。


ばれんは、昔ちょっとだけ歌舞伎俳優になりたいと思ったことがある。でも女は歌舞伎俳優になれない。もし、もし、いちおう仮にですが、私が性同一性障害だったら、競艇などのスポーツ界が受け入れている現在なら、歌舞伎養成場もは入れるはず。そして「女形」になりたい。そうしたら、女に生まれて男になって舞台で女を演じられる。毛野をやれれば、女に生まれて男になって舞台で女のような男を演じられる。

だんだん、わけがわからなくなってきました。
妄想ですよ、妄想。


 

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2006年06月29日

名前を継ぐということ

先回、色の名前のことをちょこっと書かせていただきました。名前ってとても大事。昔(いつや〜?)、ゴダイゴの曲で「ビューティフルネーム」というのがあったけれど、名前を継ぐということは、けっこうスゴイことではないかいしら?(♪びゅてほねーむ、びゅてほねーむ、らららー)


名誉というのは、名前が世の中にしらしめられること、平たく言うと有名かどうか。言葉は言霊、その上でもって、名前って特別扱い、ですわん。

さておき、 皆様ご存知の、かの有名な北斎、一派的には「葛飾北斎」ですが、他にも名前はいっぱいありますのよ。 幼名「時太郎」で、その後30ほどの名前を持っていた。 「勝川春朗(しゅんろう)」「俵屋宗理(たわらやそうり)」「為一」「画狂人卍」などなど・・。 あのレオナルドダ・ヴィンチも「ヴィンチ村のセル・ピエロの子レオナルド」が名前の意味だそうで。 要するに、「米どころ村の田吾作の息子・杉作」てなもんですわ。
で、歌川派マニアのばれんは、ここで、名前含めた系譜について僭越ながらちょびっとご紹介を  

系譜.jpg

 



稲垣進一編「図説浮世絵入門」からの系譜

稲垣進一編「図説浮世絵入門」からの引用です。(ばれんがン十年前、新宿で仲間を集めて美人画の展覧会を開いたときに稲垣進一センセ、来ていただきました。芳名帳にサインいただき、ありがとうございました。いらしていただいたとき、ばれんはいなかった、残念〜) このご本、いまだに、ばれんのバイブルです。ギャラリー・クラシックスのオーナーはちゃっかりサイン本持ってる、ということがつい最近判明、なぬー。


で、豊国というと、初代、と三代が著名ですが、二代豊国もちゃんといるのです。 初代豊国の養子で初代豊国没後、二代目豊国を襲名した。まれに、絵も見るし、希少価値からか結構高い値段がついていたりします。 で、初代国貞(後の三代豊国)ですが、な、なんと自ら二代豊国を名乗ったりもしてるのです。
改め.jpg国貞改二代豊国画(ゴッホコレクション)
当時の国貞は人気も高く、要は売れっ子で作品数も多く暮らしも裕福で門人もいっぱい。 それでも、豊国を継ぐのは「俺だ〜」という気概があったのね。または、性格よくて初代に気にいられて養子になって、名前を継ぐことになった二代豊国(豊重)への嫉妬。なんか一途な反抗、あわわー。でも後に、三代をついだからいいやんかー。


「国貞改二代豊国画」という落款は、ばれんが知る限り「美人画・風俗画」以外でみたことは無い。 想像するに、某有名少女漫画家が、「週刊誌の連載は、編集者がついてシナリオどおり描いていたけれど、月刊誌は好きなように描かせてもらった。」というコメントを読んだことがある。 週刊誌を役者絵、月刊誌を美人画に読み替えると、なんとなく納得がいくわ。  

posted by 目黒川ばれん at 00:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月16日

ばれん浮世絵基礎講座

ギャラリーに来ていただいたお客様や、その他よくある質問のお答えを含めて浮世絵について簡単な解説をまとめてみました。


浮世絵には肉筆画と版画があります。肉筆浮世絵とは紙や絹に描かれた直筆画ですよ。注文品ですので、当然高価。掛け軸や屏風となり裕福なお屋敷で鑑賞されるものです。ファッションでいうところのオートクチュールでしょうか。
一方、浮世絵版画は、大量生産できる木版画。プレタポルテ。というか今でいうとメディアや広告ですね。週刊誌、グラビア、ちらし、ポスターの類といえましょう。一般に浮世絵といえばこちらの版画のことをいいますし、ばれんがご紹介しているのもこの浮世絵版画です。(念のため)
では、今回は、浮世絵版画の工程、大まかですが現代風にまとめてみましたので、僭越ながらご説明させていただきますね。

1.プロデュース:版元(出版社)が絵師に作画を依頼。企画会議なんてあっつたのかしら?
版元.jpg版元:平野屋 新蔵


2.ディレクション:絵師が版下絵(薄紙に墨で線描きされたもの、カンプ?コンテ?そういうものでしょう)を描く。ここは絵師というアートディレクターの腕のみせどころですね。


3.検閲:版元は町奉行に版下絵を提出して検閲を受ける。(映画でいうところの映倫?)  制作許可が下りれば、改印(あらためいん)を捺してもらう。改印は時代によって特徴があり、年代を推定するに重要なしるしですよ。


4.制作・校正:彫師(ほりし)が版下絵を桜の版木に裏返して貼り、版下絵ごと彫って、主版(おもはん)を彫る。 
 彫師.jpg横川堂彫竹
摺師(すりし)が主版の墨摺を10数枚程度(色数による)摺る。  絵師が墨摺に細かい部分を描きこみ、朱文字で色を指定する。

指定の数の墨摺が用意される。色指定に従い、彫師が色数分の色版を彫る。摺師が試し摺を摺る。絵師がここでチェック。

5.印刷(色校):当然、ダメだしも・・工程での絵師≠アートディレクター、の最後のダメだし)
で、よければ、初摺(しょずり)が摺られる。

6.出版・販売:版元は初摺を再び町奉行に提出し、手数料と出版税を支払う。そうして、刷られ(流通向けの印刷ね)はれて浮世絵は絵草紙屋にて販売される。のであった〜。
はーっ、 おつかれ様でした−

ギャラリーのお客様の質問ですが、「何枚くらい摺られたの?」にお答えします。摺師ひとりの1日の仕事量をめやすとして、初摺で200枚くらい摺られたのではないだろうかといわれています。初摺の売れ行きがよければ追加で摺られたものもあります。これを後摺(あとずり)といいます。現在なら再版というべきでしょうか、多いもので、ばれんお気にいりシリーズ「役者絵東海道五十三駅」の「岡崎中村歌右衛門」が当時でも異例なほど摺られたとの話を聞いたことがあります。(たくさん刷られたことが、絵の値打ちを下げるものではないことを、声高にいいたい!)絵師はこの段階ではノーチェックなだけで、ぱちモンではありません。が、

また、後摺には後世(明治以降)に版木がみつかって摺られたものもあります。後摺は版を重ねることで原版が傷んだり、絵師の意向を変えて色数を減らされたりすることもあり、初摺に比べてどうしても出来は落ちます。

有名な広重の保永堂版「東海道五十三次之内」は人気がブレイクしてしまったゆえ再出版が多く、初期のものと後期のものとでは、出来ばえや印象に差が大きい。(後摺は復刻版とは違いますよー)

ばれんが、豊国(三代)を集めることになったのは、幸か不幸か後世では豊国(三代)が江戸時代ほどの人気がなかったのと、広重と違い豊国の画は凝りすぎていたため、お金と手間をかけてまで後摺されることもなかった。よって「本物」を手にすることができたのです。その上「役者絵」も比較的数が多いから「作品の質」ではなく「希少価値」で評価され、値段も美人画にくらべて比較的安価だったのです。
次回は、浮世絵の見分け方の予定?

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2006年06月04日

児雷也(じらいや)

日曜日のお約束、「サザエさん」を見ていましたら、裏のおじいちゃんが、蟇蛙(がまがえる)を「じらいや〜」と名づけて、その蛙が磯野家に現れて大騒動・・というストーリーでした。 

波平さんが、ざっと説明しておりましたが、「児雷也」というのは蛙の名前ではありませんよ〜。で、僭越ながらご説明を・・。

演目は「児雷也豪傑譚話(じらいやごうけつものがたり)」。主役の名前が「児雷也」なのです。この児雷也、敵を狙ううち、妖術を身につけ(このあたりは、白土三平センセの「サスケ」ですかね。毎度たとえが古くて申し訳ない(汗))。で、悪代官をやっつけたり、うわばみにたたられたり、・・物語を説明するの難しい・・・。お話的には無理もあり、それよりも、大蟇(おおがま)や大蛇が舞台いっぱいにあばれまわり、舞台機構やスペクタクルを楽しむ演目です。どろどろ〜。


沖津児雷也.jpg沖津児雷也


浮世絵のほうの説明を・・ 三代歌川豊国画、版元は伊勢屋兼吉、彫師は「彫竹」横川竹次郎。嘉永五年(1852年)。 役者は五代目、瀬川菊之丞。(美形やね〜うっとり・・・・)


この「役者見立東海道五十三驛」は、ばれんも思い入れのあるシリーズです。東海道の各宿場名に、芝居に登場する役柄を見立て、さらにその役にその役に最適の役者を見立てるというもの。 この「沖津児雷也」は実際の宿場名は「奥津」だそうで、画題は音を通わせて「沖津」なんだそうです。画題枠(こま絵)には波が描かれ、「沖つ(奥津)白波(盗賊)」と判じています。


この浮世絵は「児雷也豪傑譚話」の芝居に先行すること3ヶ月前、さらに瀬川菊之丞はそのときすでに亡くなっている。要するに、瀬川菊之丞が演じた児雷也豪傑譚話っていうのは存在しなかった。役者絵は興行の宣伝・チラシで刷られることが多かったけれど、こういう企画ものは、絵師というアートディレクターの役割が見えるのよね〜。豊国には、児雷也のキャスティングは菊之丞以外に考えられなかった。うーむ。

ところで、「サザエさん」の最後のシーンで、蛙の「じらいや」の画面の隅、丸い小窓にサザエさんとカツオが・・・。浮世絵のこま絵は21世紀のテレビアニメに引き継がれている!!
posted by 目黒川ばれん at 21:56| Comment(3) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

国性爺合戦(こくせんやかっせん)

和藤内.jpg和藤内(わとうない)

久しぶりに、浮世絵をご紹介。国性爺合戦の和藤内(わとうない)、この人物、なななんと、中国人の父と日本人の母との間に生まれたハーフなのです。 物語は、九州の浜辺で猟師として平和に暮らす青年和藤内に実父の祖国、大明国(だいみんこく)滅亡の情報が入る。さあたいへん、大明国再興に立ち上がり、海路を大陸に渡り大活躍するのでありました。 和藤内は実在した中国明朝の武将、国性爺鄭成功(ていせいこう)がモデルとのこと。中国人の父と日本人の母との間に長崎で生まれ後に中国にわたり、1644年に明朝が清朝に滅ぼされると、清朝に18年にわたりレジスタンスを貫いたというから、たいしたもんです。 国性爺合戦は、人形芝居として初演されてから歌舞伎でも上演されるようになり、空前のロングランとなったとあります。鎖国下の日本で、日系人の国際舞台にした活躍は、人々を熱狂させたのですね。 6月の国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で上演されますので、ぜひどうぞ。 6月歌舞伎鑑賞教室「国性爺合戦」
公演期間 2006年6月1日(木) 〜 2006年6月24日(土)
休演日  2006年6月12日(月)
開演時間 11時(1時30分終演予定)・2時30分(5時終演予定)[2回公演]※9日、16日は2時30分開演のみ

 

浮世絵の方でぜひ見ていただきたいのは、和藤内の衣裳の柄です。和藤内は縄の模様の着物を着ていますが、この柄は、芝翫(しかん)縞の翫になっております。なかなか手がこんでおります。 

芝翫縞は文化年間に初代中村芝翫(三代目中村歌右衛門)が四本縞の間に鐶繋ぎを置いて「四鐶(芝翫)」と読ませて流行した模様です。 


 

 
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2006年05月20日

春信

blog春信.jpg春信


浮世絵の絵師のうちでも数本の指に数えられる美人絵師のうちのひとり、鈴木春信です。(無款ですが)。


江戸時代には新年の挨拶にその年の絵暦を作って配る習慣があり、明和二年(1765年)ころ、俳諧趣味人の間で、デザインの優劣を競う交換会が流行しました。そのブームの引導で、浮世絵に多色刷り技術が開発されました。 春信はこのムーブメントのなかで、超売れっ子絵師となり、わずか5年の間に600種類の美人画を残したというのだから、たいしたものです。彼の没後、司馬江漢(しばこうかん、銅版画の先駆者・蘭学者として有名)が春信の贋作を作っていたというのだから、当時の春信の人気はよほど、ものすごかったのでしょうね。


春信の描く女性は胸もお尻もぺちゃんこの少女達です。けして大人ではないけれど、ガキンチョでもなし。ほのかな青い色気、萌え〜という感覚は江戸時代でも、おんなじなのだなあと、新たな発見です。少女のしなやかな身のこなしの一瞬をけして逃さない春信は、今のグラビアアイドルの写真集の巨匠カメラマン、篠山紀信サンでしょうか。


さてこの春信の画の少女。丸窓の奥でなにやら生地を叩いています。呼び方はわからないけれど当事のアイロンのようなものらしい。(呼び方わかる方教えてください)。 深窓のお嬢様の暮らしをついつい覗き見しているような気持ちにさせる春信のテクニック、心にくいところです。


春信の活躍した時代の浮世絵は「きめ出し」という摺りの技術が使われています。版画の一部を浮き出させる表現で、凹版に紙を当てて裏からたたきだしてふくらませます。この作品でも窓にさんさんと降り注ぐ日の光を斜めうえからの線で表現しています。漫画でいうホワイト効果、きらきら〜。

おかげさまで、お道具のこと、わかりました。
器の修理・修復をされている、ばれんの将来の「お師匠」より、

春信の窓のところの少女が叩いているのは「砧」ではなかろうかと思われます。ちょっと変った形の砧でしょうか。
真綿を広げるのは娼婦の内職ですが、砧を打つのはそうではないですか?

とのこと。
いつもお世話になっている、現在のお師匠より、

ブログに出ていた春信描く女性が使っているのは、「砧(きぬた)」です。
以下、大辞林の記述です。
1)〔「きぬいた(衣板)」の転〕麻・楮(こうぞ)・葛(くず)などで織った布や絹を槌(つち)で打って柔らかくし、つやを出すのに用いる木または石の台。また、それを打つことや打つ音。
[季]秋。《声澄みて北斗に響く―かな/芭蕉》
(調べれば分るでしょうが)なぜか秋の季語です。
そのため砧=秋の夜長という連想をさせます。

ほほう、そうか。そうなのか。セピア色の色彩の中で、少女が絹をうつ音が聞こえてきそうです。

ちなみに、世田谷区の「砧」にある世田谷美術館で、1992年に「ゴッホと日本」展が開催されました。ゴッホが歌川派を中心としたの浮世絵を収集したいたことを、きっちりとテーマにした展覧会でした。いまでこそ、プラズマテレビのCMでも、ゴッホが日本に憧れていたことを言っていますが、当時はあんまり知られていなかったのですよ。  
posted by 目黒川ばれん at 09:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月16日

相撲絵(すもうえ)

blog相撲絵.jpg相撲絵


またまた、「ばれんの浮世絵講座」の続きです。浮世絵といわれるジャンルには、こんなのもあるよー、で、今回は相撲絵です。

  
相撲絵は、文字どおり力士のブロマイドや土俵上の取り組みなどを描いたものです。天明・寛政(1781-1801)頃は勝川派などが、幕末には歌川派が数多く描いていたそうです。ま、今でいうところのスポーツ新聞・スポーツグラフ紙みたいなものでしょうかね。


ところで、ばれんは、普段スポーツ(プロ野球やサッカーなど)は、テレビなどでもほとんど見ることはないのですが、こういう浮世絵を見ていると、たまらなくお相撲を実際に見たくなります。なぜなら、そこに“美”があるからです。 (たまたまテレビで見てしまった、先日の大阪の亀○兄弟の試合はひどかった〜。試合相手に「メンチを切った」とか、・・かっこ悪すぎる。ボクシングって、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」んと違うんかい?ボクシングってスポーツと違うんかい?ボクシングはケンカとちゃうよ、あれが大阪、西成のハングリー精神ゆうんなら、大阪出身のばれんはブーイングやで〜!ブーブー!!ゼイゼイ!!!・・・興奮すると関西弁フルスロットルになりまんねん。えらいスンマヘン


・・・息と気持ちを整えて・・・。で、先日ばれんが住んでいる目黒にて、お師匠と一席もうける機会がありまして。場所は相撲部屋料理の某所(目黒で相撲部屋料理といえば、あんまりないからすぐわかりますよね)
お店の中には(トイレまで)番付や、現代の力士の姿絵が飾ってあり、オーナーの元某力士も巨体をゆさゆさ揺らしながら席まで挨拶にきていただきました。ええもんです。


やはり、大男が裸の肌をぶつけ合いながら、汗をはじけさせながら(くれぐれも新宿三丁目ではないよん!)、真剣勝負する姿には“美”があります。お師匠によりますと、相撲絵は、当時も結構生産性が重要だったので、身体の部分を共有して、顔だけ変えて発行されていた。というようなことも言われているようですが、力士の肖像として、かっこいい姿・筋肉(贅肉??)を強調した表現、なかなかのもんですね。  
 

posted by 目黒川ばれん at 21:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

玩具絵(おもちゃえ)

blogおもちゃ.jpg玩具絵


「ばれんの浮世絵講座」の続きです。浮世絵といわれるジャンルには、こんなのもあるよー、ということで、玩具絵を紹介します。  

ごらんのとおり、目玉おやじみたいな奇妙なキャラが、なんかくねくねと人間の真似をしているばかばかしいものでございます。これも、まぎれもなく浮世絵のひとつのジャンルなのですよ。こういうのを玩具絵といいます。 


玩具絵は、子供がおもちゃとして遊んだり、絵本だったりする浮世絵です。浮世絵が当時の新聞・雑誌・グラビア・広告というメディアだったわけですから、子供用のものもあったわけです。

  
内容は、切り抜いて着せ替えをしたり、切り抜いてメンコにしたり、やっぱり切り抜いて工作したり、子供のための図鑑、遊ぶおもちゃ、ゲームといった類です。江戸時代から明治にかけてたくさんつくられていたそうですが、なにぶん「切り抜いて遊ぶ」という宿命から、現在残っているものはわりと少ないそうです。

この作者、「芳藤(よしふじ)」はこの玩具絵に心血注ぎ、“おもちゃ芳藤”といわれた絵師です。名前から想像できるとおり国芳の門下で、美人画や武者絵なども描いていたそうなのですが、玩具絵がよほど向いていたのか、明治期には玩具絵専門絵師になって大活躍しました。


ばれん的解釈・・・ 芳藤は、ギャグの天才、赤塚不二夫なのだ!!
 
 
 

posted by 目黒川ばれん at 19:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月14日

横浜絵

blog横浜絵.jpg異人屋敷料理之図

今回は、ちょっくら「ばれんの浮世絵講座」です。浮世絵といわれるジャンルには、こんなのもあるよー、ということで、横浜絵を紹介します

安政六年(1859)に、米国の黒船来航で鎖国を解き、横浜という当時の一漁村に港と外人居住区を急造し、日本の玄関口としたことは皆さんご存知ですよね。 

江戸のプロデューサーズの版元は貞秀ら、浮世絵師(カメラマン兼特派員ですかね)を派遣し、横浜を取材させて、エキゾチックな町並みや異人風俗を描かせて売り出したのです。外人居留区・西洋館・蒸気船・外国人の生活風俗などを描いた「横浜絵」は、好奇心旺盛な江戸っ子にアピールしたようです。 

貞秀の残した浮世絵は、「一覧図」と呼ばれる精密な鳥瞰図で、横浜絵といえば、貞秀と言う方も多いと思います。まるでセスナかヘリコプターを飛ばして航空写真を撮ったかのような貞秀の絵は、当時の歴史的証拠品でもあり、またその緻密さからファンは多いことでしょう。 
 
本品の作者は芳員(よしかず)、タイトルは見たとおりの「異人屋敷料理之図」、江戸時代には食されなかった肉を異人さんたちが刻んでいます。詳しくはわかりませんが、作っているのは「牛鍋(すき焼き)」でしょうか、でも奥に辮髪姿の人物もいますし、調理している人の風俗からみると、もしかして中華料理かもしれませんね。 

もし開国せずにいて、肉を食べない文化をですね、今もずっと継承していたら、現在のBSE問題なんて日本人には関係なかったのかもしれませんけれど。


でもすき焼き・焼肉おいしいし、人間の業って、罪深い・・・。 
posted by 目黒川ばれん at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

美人東海道

blog美人東海道御油.jpg御油(おゆ)


国貞の描く「東海道五十三次之内」でございます。 一人立ち姿の美人の背景に東海道の風景を描いたこのシリーズは、艶やかな美人と名所の取り合わせで、「美人東海道」とか「女人東海道」などと呼ばれています。大きさは、小判とよばれるタイプです。
 

この「美人東海道」、「役者絵見立東海道五十三次駅」と同様、広重の「東海道五十三次之内」を背景に借用したともいわれますが、ふーん、そうなのかなあ。豊国ファンのばれん的には、豊国が広重の真似をしたとか、スケッチをパクッたとかいう諸先生方の論説には、釈然としないものがあります。
 

広重は、人気絶頂の歌川豊国に入門したかったのだけれども、それでなくても門人多数のため断られ、歌川豊広の門を叩いたとのことです。手塚治虫センセにあこがれて、虫プロに入りたかったけれど断られて、横山光輝センセのところへアシスタントに入った・・たとえが古くて申し訳ない、(汗!)というようなイメージですかしら。国貞はその豊国門下でもトップスター、広重よりは当然、立場が上なのです。
 

広重のファンの方々には申し分けないけれど、それにしても広重って「ちょっと下手・・・」。一所懸命描いているのは健気なのだけれど、たとえば「浮世絵−北斎と広重」などという展覧会で、北斎の、特に人物(裸の男さんなど)を見たそのまま、広重の描く人物に目を移すと、「あららあああ・・・」とショックを受けるのはわたしだけかなあ。 もちろん、広重もすばらしい浮世絵をいっぱい残していて、評価されるのは「東海道五十三次之内」ではなくて、素晴らしいカメラアングルを駆使した「名所江戸百景」であるべきだと思うのです。
 

さておき、「美人東海道」に話をもどしましょう。この女性、手ぬぐいを持っていらっしゃる。御油(おゆ)をお湯にかけた、江戸のしゃれっ気もご一緒に鑑賞くださいませ。  
 
  
 

posted by 目黒川ばれん at 11:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

木曾街道六十九次之内

blog熊谷陣屋.jpg盛綱陣屋
「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」の一シーンを描いたものです。

「一谷嫩軍記」は「平家物語」の世界から、一の谷合戦の岡部六弥太と平忠度、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)と平敦盛との戦いの物語を、歌舞伎の世界観へ捨象されたものです。
息子を犠牲にし、主君の敦盛を救う直実の、いわゆる「首実見もの」であります。「義理と人情、はかりにかけりゃあ〜」はわかっちゃあいるけど、(ちょっと、泣いちゃっていいかしら)、日本人(特に子供さんのいる方)ならまず間違いなく、ぐぐぐ、ときまっせえ。

この絵は、国芳の「木曾街道六十九次之内」です。豊国「役者絵見立東海道五十三次駅」を表の街道とすれば、「木曾街道」は裏の道・・ではなく、これらは本州を縦横に交差する、江戸時代でも主要な道を題材にしたシリーズです。

ばれんは、東京−大阪を往復することが多く、東海道はなじみの道で「役者絵見立東海道五十三次駅」に、思い入れがやや強いのですが、信州方面にご縁がある方にはコレクターズアイテムとして、おススメのシリーズです。この絵の場所はキャラの和田兵衛にあわせて「和田」という場所です。  

ばれんは、このお品は浮世絵を集め始めたかなり初期段階に入手しました。当時は浮世絵のビジュアル的な部分にばかり興味を持っていましたが、「せっかくだから歌舞伎も見ようかなあ」とたまたま鑑賞した歌舞伎の演目が偶然この「熊谷陣屋」だったのです。
それは、もう素晴らしい瞬間です。自分の持っている江戸時代の浮世絵と全く同じシーン、 この和田兵衛が鉄砲隊にとりかこまれ、「チャッ!」という構える音の演出とともに、目の前で絵が現実になる瞬間!2Dが3Dになる瞬間!ものの数秒ですが、(はまった!〜)のでありました。そして、早や・・十年、なのでした。ちゃんちゃん。

またまたまた、やっちまいました〜
「熊谷陣屋(くまがいじんや)」と書いてしまいましたが、「和田兵衛」が登場するのは、「盛綱陣屋」だそうです。お師匠に指摘をうけました。

お師匠によりますと

和田兵衛は「熊谷陣屋」ではなく『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』「盛綱陣屋(もりつなじんや)に登場します。「陣屋」つながりでややこしいのですが。。。
さらに二つとも首実見があり、子ども(熊谷は息子・盛綱は甥)が
身代わりになる、という共通点がありますので、混同しやすい演目といえます。

とのことです。
まだまだ勉強の足りないばれんでごじゃいます・・・。お許しを。
 

posted by 目黒川ばれん at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

源氏香

blog源氏絵三枚続.jpg源氏絵 三枚続き
 
源氏香とは、何種類かの香りを組み合わせてその香木の香りを嗅ぎ当てる遊びです。 香りを25包混ぜ合わせで、そこから抽出した5包を順に焚いていき、香席(お茶席のようなイメージかな?)では、5回聞香炉が回されるそうで。客は、香りを嗅いで(香りを聞くというらしい)、紙に右から順に縦線を引き、同じ香りかなと思うものを、横線で繋ぎます。そして、5回香りを嗅いだ後に出来上がったその図を、源氏物語の巻名の「源氏香之図」に垂らし合わせて、巻名で答えて遊ぶという。まことに優美でたおやかな遊びでございます。これを香道といって、今もあちこちに教室がいっぱいあるようで、ばれんも勉強したい分野です。

この「源氏香之図」がデザインとしてもなかなかいけていて、なにか韓国のハングルやロシアの文字のような理路整然とした、知的な暗号のような感覚を受けます。浮世絵の源氏絵には必ずというかお約束のモチーフです。源氏絵といわれるそれには、必ずどこかで「源氏香之図」が用いられています。「源氏香」といえば源氏香之図のデザインそのものを指すようにもなったとのこと。 

で、「源氏絵」なのですが、浮世絵の世界で説明しますと、「柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の物語を描いた一連の作品をいいます。そのストーリーは、平安時代のおなじみ「源氏物語」を江戸仕立てにしたもの。平安の宮廷生活を、江戸の大奥に置き換え、キンキラキンキンの享楽生活を絢爛豪華に描いた源氏絵は、江戸の婦女子の熱狂を後押しに、当時のファッションバイブルだったそうですね。 

本作品は、まぎれなく「源氏絵」なのですが、お話の中心の源氏は小窓からちょこっと顔をだすだけ。壁紙は「源氏香之図」がふんだんにちりばめられたモダンデザイン。そして女性だけが一生懸命お掃除をして仕事している。
源氏って、島耕作???


 

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2006年05月05日

傾城(けいせい)

blog英泉傾城.jpg傾城 藍摺り

傾城反魂香(けいせいはんごうこう)からピンときて、じゃじゃじゃーん、傾城のご登場。ちなみに最高位の遊女を傾城(けいせい)と呼ぶ。とのこと。
遊女というと、貧しい家庭、少女が売られ・・と悲惨なイメージがつきまといますが、最高位の傾城ともなれば、銀座の超一流高級クラブのホステスか、パリコレのトップモデルか、ハリウッド女優か、はてさて、姉妹という名の某ユニットか・・・冗談はさておき、お相手できるのは、お金持ちで、なおかつ名士で、まっ今風にいいますとセレブということでしょう。

傾城が花魁道中で着るきらびやかな衣裳のことを「伊達傾城(だてけいせい)」というそうです。「助六」の揚巻(あげまき)、や「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」の大磯の虎(おおおいそのとら)などが用いていますね。(ちなみに傾城の普段着・部屋着の衣裳を「世話傾城(せわけいせい)」というそうです)。この傾城の衣裳ですが、打掛をまとい、俎板帯(まないたおび)とよばれる帯には、虎の刺繍が施されて、まさにゴージャスないでたちです。

画は溪齋英泉です。英泉の美人画は、英山の描くところの八頭身で上品な女性にかわり、リアルで現実的で意思の強そうな美人を描き、人気を博したといいます。たしかに、煙草も吸うし、酒も飲む、もちろんトイレにもいくし、トイレから帰ってきて、すっきりした顔がまた色っぽいという、そんな女性ですよね。


前に、初代豊国は手塚治虫で、国芳は永井豪をイメージすると書きました。その上で、しいて言えば三代豊国は石ノ森章太郎かなあと思っていますが、いろいろネットで調べていると「溪齋英泉はつげ義春だ」というページを見つけました。ふーむ。

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2006年05月04日

役者絵見立東海道五十三次駅

blog傾城反魂香.jpg大津 又平と女房のおとく

三代豊国ファンを自称するばれんとしては、はずせないのがこの「役者絵見立東海道五十三次駅」シリーズです。東海道の各宿場町や街道の風景を背景に、その場所に縁のある歌舞伎演目のキャラクターを配した三代豊国晩年の名作・力作です。

背景が、現代では一般的には豊国よりは著名になってしまった歌川広重の「東海道五十三次続画」に同様のシーンが描かれており、オリジナルスケッチは、広重か豊国か、どっちやねん!!と一時、浮世絵の常識を覆すほど、業界では論争もあった曰くつきのシリーズです。ばれんは、豊国が先だと信じています。(この根拠は、ほかの研究家の先生がきちんと論じていらっしゃいますので、私がここで書きますとパクリになりますのと、文字数も足りなくなりますので、また別途)

さて、いくつか手持ちの「役者絵見立東海道五十三次駅」シリーズのなかで、悩みになやんでこの「大津 又平と女房のおとく」に決定です。東海道はいくつか二枚続きになっている場があります。ばれんが調べたところ、「日本橋」「神奈川」「平塚」「大磯」「箱根」「三島」「原」「吉原」「由比」「興津」「岡部」「藤枝」「白須賀」「仁川」「吉田」「御油」「赤坂」「藤川」「岡崎」「四日市」「石薬師」「亀山」「関」「石部」「大津」「京都」です。ふうー。

で、この「大津」ですが、描かれている演目は「吃又(どもまた)=傾城反魂香(けいせいはんごうこう)」の「又平」とその女房「おとく」。又平は大津でこども相手に大津絵を描いて暮らす吃りの男。師匠の土佐将監光信(とさしょうげんみつのぶ)の苗字を貰いたい一心で、ホント命がけで手水鉢の裏に自画像を描くと、なっなんと、絵が石を抜けて表に抜けて見えた。一念、岩をも通すのだ〜。

ばれんが最初にこの絵を選んだのは、「役者絵見立東海道五十三次駅」シリーズのなかでも二枚続きのものをという意図もあったのだけれど、絵師・絵をテーマにした演目であり登場人物だったからなのです。大津絵の祖について「本朝文鑑」や「東海道名所図会」など江戸時代の文献には、浮世又平(又兵衛)とか、岩佐又平と書かれているようです。又平は実在の人物ではなく、大津絵は名もなき画工たちによる無名の絵ですが、絵が好きで好きでたまらないばれんにとっては、どうしても感情移入してしまう一品なのでありました。

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posted by 目黒川ばれん at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月01日

鏡絵by国貞

blogお祭り佐オ.jpgお祭り佐七(おまつりさしち)
 
しばらく、国芳が続いたので、やはり役者絵の王道、三代豊国をと思い、迷いに迷って、「鏡絵」の登場です。ただしここは半回転ひねりをいれて国貞のものをどうぞ。

三代歌川豊国は、デザイン・アイデア力にすぐれ、鏡絵のほか、ちょうちんや団扇、杯などに、役者の首(アップ、業界的には、バストショット)を配した作品を多く残しています。鏡絵は、ゴッホが所有していたことで、「豊国」落款のものが有名ですが、これは国貞時代のものです。
国貞落款の作品、特に五渡亭のものは、豊国時代の洗練さとは別に、こう、なんちゅうか、「才能あふれる若者〜」という感しで、また「おつ」なのですが、これは香蝶桜のもの。

描かれているお題は「お祭り佐七」威勢のいい若者、鳶の佐七と柳橋の売れっ子芸者小糸とのロマンス劇。神田明神の祭礼を背景に、いなせな男と粋な姐サンの蜜時から終演へと、「持ち上げておいて、落す」という歌舞伎のひとつの世界をを成立させた作品です。
「お祭り佐七」は三代目菊五郎が、鶴屋南北の「心謎解色絲(こころのなぞとけたいろいと)でを大当たりをとったと(アンチョコ f(^^;) ポリポリ)あります。本品は、「梅幸」ともありますが、「梅幸」は尾上菊五郎 の俳名です。(アンチョコ f(^^;) ポリポリ) これは時代的・顔的に三代目菊五郎でしょうね!

とすれば、大当たりやんか〜(調べているうちにわかった\(*T▽T*)/ワーイ )

posted by 目黒川ばれん at 05:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月26日

三津五郎縞(みつごろうじま)

 BLOG坂東三津五郎.jpg坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)


国芳の描くところの坂東三津五郎です。(四代目、たぶん・・)
国芳は「武者絵」「風刺画」「美人画」「歴史画」「風景画」と幅広い分野で、名品がいっぱいありますが、「役者絵」も、もちろん描いています。初代豊国の門人であったので、当然っちゃ当然ですが。
でも、この絵のように俳優の、もろブロマイドな姿絵は、わりと珍しいのではないかなあ。(ばれんの感想)

さてこの絵を選んだのは、国芳つながりでだけでなく、柄の話つながりです。
三津五郎が着ている着物の柄は、ず・ば・り

「三津五郎縞(みつごろうじま)」

というそうです。(マンマやね〜)
三・五・六本の縞を縦横に交差させ「三五六(三津五郎)」と読ませます。
他にも役者文様としては、「半四郎鹿子」や「菊五郎格子」などもあるようです。

しかし、この絵の着物の柄をよーく見てみると、三・五の格子なんだけど?
ま、かっちょいいからいいか。

おっとお、またやっちまいました。
「三津五郎縞」は、三・三(足して六)・五で、成り立つとの説もあり。とのご指摘をいただきました。となると、この絵で正解なのね。いろいろ勉強・人生勉強、がんばります!

posted by 目黒川ばれん at 17:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 浮世絵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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